ひらりろぐ。

心にもない言葉より沈黙

正直なところ

自分のやりたいことをしているのなら、ひとりだとしても満足感はある。けれども私の場合は、その覚悟よりも本当はずっとひとのことが気になった。

 

そうして、ひとと会ってみるとやっぱり楽しくてお酒も美味しくて、そうしたらまたよく喋ってもっと楽しい。そんな付き合いのなかで、声をかければ会ってくれるひともいるのに、そしてそれを望んでいたのに、どこか孤独なのだと知った。ひとといて、うそ寒いようなこと。

 

ひとりでやりたいことをしても、結局は身の程を知らねばならないときには打ちのめされて、ひとに会えばさよならのあとの、空いた右側が寂しい。

 

どちらが良くてどちらが悪いかなんて、決められないのは分かっている。今はそれが分からないままに「ひと」を選ぼうとして迷っている最中なんだ。

 

だけど、本当は「ひと」と出会ったり過ごしたりするのに、迷いなんて生じるはずもない。それはほんの一瞬のことだからと知っている。

誰かと飲んでいて楽しくても、ぜんぶの時間のなかで見ればその夜はほんの一瞬だし、誰かとぱっと出会ってしまったら、もうどうしようもなく走ってしまう。

 

迷うだけの時間があれば、いっそ、追ってしまったほうがいいし、そもそもまだ、迷いなんてなく飛びこめる瞬間に憧れているのだと思う。

 

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こーんなことを年末に、下書きしたまま残していた。

もうすぐ25歳になる。これはこれで楽しいけど、もっと言いたいこととか書きたいことがあったはずなんだなあ。

 

 

少女漫画なんて嫌いだと、

少女漫画なんて嫌いだと思っていた。

10歳前後で出会ったそれらは、私に夢を与えたけれど、実際に訪れた教室での日々は良いことばかりではなかったし、好きなひとにはそもそも彼女がいるもので、私を好きだと言ってくれるひとのことは好きじゃなかったりした。そんなふうに自分の心しだいで平気でひとを傷つけて、もちろん傷つけられた言葉もあった。

 

けれども、今また少女漫画と再会して、その色にとんとはまってしまっているのでした・・・

 

過ぎ去ってきたから美しく見えて、いくらでも美しく語ることができるけれど、それはやっぱり、少しずつ忘れていっているからかもしれない。

少女漫画の主人公と同じ歳だったころのことは、上に書いたとおりだと思ったから書いたけれど、本当は、そんな風にまるっとまとめられるわけがない。あの時間軸のなかの私は、いつかこの日々がまとまって見えてくることなんて知らなかった。

 

なのに私は、ああいう一行でまとめて納得できてしまうんだ。

そしてそれがちっとも苦しくないんだ。

ちっとも。

 

 

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きみにごめんね

人間だからどうしても意地悪な部分はあるし、

気に入らないものごとや好き嫌いもある。

だけど、思い出してみれば、

出会った一番最初は、そんなことはなかったはずなんだ。

顔を合わせて、これからよろしくねなんて笑ったはずなんだ。

その瞬間が薄れないで、ずっとそばにあればなあ。

最初の笑顔をずっと忘れないでいられたらなあ。

 

どう思ったとしても、きみを好きで痛いよ。

 

いいこと思いついた

クラス替えのたびに、「あきこちゃん?」と呼ばれて、「しょうこです」と返すのにうんざりしていた私は平成6年生まれ。

 

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自分の名前は一発で呼んでもらえなくてめんどうだな、なんて思っていたけど、自分の名前を好きになるのに15年、自分の今に納得できるようになるのに24年かかった。

 

そう思えるまでに出会ったすべてのひとに、もう一度揃って顔を合わすことはもはやないのだと、それは分かっているけれど、どこかで出会ったなら、彼らはきっと、私を「しょうこ」と呼んでくれると思うよ。

 

平成に撮り溜めた思い出を

平成の終わりに現像して

『平成』のミニアルバムを一冊つくろう。

ねころんで夢をみる

夢は、様々にかたちをかえて、常にそばをついてくる。

 

あるときは空の色になって、移り変わる心や時間の経過のことを意識させて、ここに感じたものを書けと促すし、

 

あるときは口遊む懐かしい歌になって、あの頃の自分と重ねて見せようとする。

 

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日の目をみるとか、みないとか言うけど、

夢はそもそも灯りになっていて、

自分から発光しているはずなんだ、わずかでも

 

こんなことを考えて、救われるならまだいい

私のなかの宙ぶらりんたち

ブログって、実は下書きこそ面白かったりして・・・

ひとの目に触れるほどの言葉じゃないからと、そのままもう出ることのない言葉たちの待ちぼうけ感とか







続きのつながらない言葉、飲み込んでしまった言葉のいじらしさ

そんな言葉がひとのなかにはどれだけあるだろうな
そういうのが多いひとほど、やさしいかもしれないな


私、自分がやさしいと言っているんじゃあないよ。
私はわりとなんでも言うんだ。
だけどたまには飲み込むときもあって、そんなときは少し落胆しながら、それでいてどこかホッともしちゃう。
電話をしたい相手がつかまらなくて、そのままにしちゃうときとか。ちょっと、ホッとするでしょ。やっぱり声を聴くと、色々思ってもないことをそれらしく、きれいに聴かせようとか、しちゃう。
だからこそ、電話がすれ違ったり、呼び止められなかったときは、心にもない言葉より沈黙だ、と、思うようにしている。

父が定年退職する。

いつも通りの終業時間のあと、いつも通りの道を帰りながら、よくすれ違う自転車のおじさんと、例によってすれ違ったとき、「あ、お父は最後の仕事から帰ってくるんだろうな」と、きゅっと肌に擦り込まれるような気持ちで思い出した。

 

朝、私の部屋をすこし覗いて「最後の日、行ってくるわ」と、片手をあげて出て行ったお父にも、きっといたはずだ、こんなふうに通勤ですれ違うひとが。

 

知り合うことのないままに、すれ違い続けるひとのいる道をあとにするときは、ひとつの時代がたしかに終わるようなものだ。

 

その時間帯のその場所でのみすれ違い続けるひととは、そのうち、なんの言葉もなしに二度と会うことはなくなる。

だけど私たちの日々は、そんなひとたちの時間と一緒に流れているのだな。誰かにとっては私も、日々の背景なんだ。

 

その道をあとに、お父は花束と帰ってくるだろう。

おつかれさまでした。

 

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